تسجيل الدخول理人の管理が始まって一週間が経った。
変わったことがある。食生活だ。毎日、手作り弁当が届く。メニューは毎回違っていて、どれも手が込んでいた。唐揚げをリクエストした翌日には、ちゃんと唐揚げが入っていた。二種類の衣で揚げ分けるというこだわりようだった。
夕飯も作りにくると理人は言ったが、それはさすがに断った。弁当だけで十分すぎる。その代わり、教わった通り、スーパーやコンビニで弁当や惣菜を買うときはサラダを足すようになった。
おかげで体調はいい。朝の目覚めが前より楽になった。午後の眠気も減って、仕事が前より捗る。今まで土日も出勤していたのが嘘みたいだ。
久しぶりに予定のない土曜日。ゆっくり寝るぞ、と思っていた。
それなのに。
スマートフォンが鳴っている。枕元で、しつこく、鳴り続けている。
「……うるせえな」
布団の中で唸った。無視してみるが、切れる気配がない。十回、二十回。あきらめる様子がまるでない。直はイライラしながら、画面も確認せずに電話に出た。
「……もしもし」
「先輩、おはようございます」
爽やかな声が耳に飛び込んできた。理人だ。
「あ? 神谷か……。今何時だよ」
「九時前です」
「九時前って……。休みだぞ今日」
「はい。だから電話しました」
意味がわからなかった。
「起きましたよね。準備して出てきてください」
「は?」
「買い物に行きます」
「……なんで」
「先輩の服を買いに行くんです」
「服? 俺、服いらないけど」
「いります」
なぜか断言された。意味がわからない。
直は布団の中で目をこすった。なんで休日の朝に後輩から電話がかかってきて、服を買いに行くと言われているのか。脳が追いつかない。
「俺は行かねえ。寝る」
「もう、先輩の部屋の前にいますので」
「……は?」
嘘だろ。嘘と言ってくれ。
直は布団から這い出て、玄関のドアをそっと開けた。
「おはようございます」
「ひっ!」
本当にいた。
理人がドアの前に立っていた。白いシャツにネイビーのパンツ。休日なのに隙がない。朝の光を受けて、端正な顔がやけにはっきり見える。対する直はヨレヨレのスウェットに寝癖だらけだ。差がひどい。
「とにかく、準備してください」
「……なんで俺の家知ってんだよ。教えたっけ?」
「社員名簿です」
「社員名簿って……住所見て来たのか」
「はい。十五分で出てこれますか」
悪びれる様子がまったくない。直は呆れを通り越して、もうなにも言えなかった。
「……わかったよ」
顔を洗い、歯を磨き、適当に服を引っ張りだして着替えた。鏡を見ると、寝癖がひどかった。水で押さえて、なんとか外に出られる状態にした。
玄関を出ると、理人がスマートフォンをいじりながら待っていた。直の姿を見て、上から下まで一瞬で視線を走らせた。
「……それで出かけるんですか」
「うるせえ。文句あるなら帰れ」
「だから服を買いに行くんです」
返す言葉がなかった。
◆
理人に連れられたのは、ターミナル駅近くのファッションビルだった。
「おい、どこ行くんだよ」
「服を買いに」
「だから、なんで俺の服を」
「先輩、私服がスウェットしかないでしょう」
「……悪いかよ。どうせ休みの日は家からでないし」
「これからはでます」
「は?」
「出かけることが増えますから」
理人はそれだけ言って、ビルに入っていった。「なんで」と聞く隙を与えない歩き方だった。
入った店は、直が普段くるようなところではなかった。けれど、並んでいる服のテイストは直の好きな系統に近い。カジュアルだが、だらしなくない。なんで自分の好みを知っているのか聞こうとしたが、理人はもう棚のほうに歩いていた。
理人は迷いなく服を見て回った。手に取っては戻し、色違いを確認し、素材を指で触る。自分の服を選んでいるかのように手際がいい。数分で数着を手に取って戻ってきた。
「試着してください」
「早いな……。もう選んだのかよ」
「サイズは合うはずです」
言われるまま試着室に入った。
ぴったりだった――。
トップスならまだわかる。体格を見れば、ある程度の見当はつく。けれど、ボトムスまでジャストサイズなのはおかしい。ウエストも丈も、試着して調整したかのように合っている。裾の長さまでちょうどよかった。
カーテンを開けると、理人が目の前に立っていた。近い。
「どうですか」
「いや、お前……。なんでサイズわかったんだよ」
「見ればわかります」
「ボトムスまでぴったりだぞ。見ただけでわかるか、普通」
「先輩の体型は把握してますから」
さらりといわれた。当たり前のような口調だった。
弁当の味のことが頭をよぎった。甘めの卵焼きが好きだといったこともないのに、ぴったりだった。今度はサイズだ。
こいつ、俺のこと詳しすぎないか。
聞こうとしたが、理人はもう鏡越しに直の全身を確認していた。
「この色、似合ってます」
「……そうか?」
「はい。次、こっちも」
二着目を渡された。それも合っていた。色もデザインも、自分では選ばないけれど着てみると悪くない。鏡に映った自分が、いつもよりましに見えた。
「気に入りましたか」
「……ああ。悪くない」
「では、もう一軒見てみましょう」
理人は直の返事を待たず、もう歩きだしていた。
三軒回った。どの店でも理人が選んだ服は直の好みに合っていて、サイズも外さなかった。二軒目ではジャケットを試着させられ、三軒目ではシャツを三枚比べさせられた。理人は自分のものには一切手を伸ばさず、ひたすら直の服だけを選んでいた。
最終的にシャツを二枚とパンツを一本買った。理人は「よかったです」とだけ言った。
自分のために、半日かけて服を選んでくれる人間がいる。付き合っていた彼女でさえ、こんなことはしてくれなかった。
◆
歩き疲れて、カフェに入った。窓際の席に座って、直はぐったりと背もたれに体を預けた。
「あー……疲れた。普段こんなに歩かないから、足が限界だ」
「体力なさすぎです」
「うるせえ」
理人がメニューを差し出してきた。
「なにします?」
「んー……。あ、ベリーのタルトあるじゃん。それとダージリンで」
「了解です」
理人がコーヒーを、直がタルトを注文した。運ばれてきたタルトにフォークを入れる。カスタードの上にベリーがたっぷり乗っていて、甘みと酸味のバランスがちょうどいい。
「うま……。甘いもの食べたの久しぶりだ」
「先輩、タルト好きなんですね」
「おう。昔からだな」
「……ですよね」
「ん? 今なんかいったか?」
「いえ。なにも」
理人はコーヒーカップを口元に持っていった。その目がほんの一瞬、遠くを見ていた気がしたが、すぐにいつもの無表情に戻っていた。
直がタルトを食べ終わるころ、ナプキンが差し出された。
「ついてますよ。口元」
「え? マジ?」
慌てて口を拭った。恥ずかしい。二十七にもなって、口の周りを汚すなんて。
「……ったく。先に言えよ」
「今言いました」
「もっと早くだって」
理人の口元がわずかに動いた。笑ったのか。この男の表情の変化は、いつも小さくて、見逃しそうになる。
不思議な距離感だった。後輩のくせに遠慮がない。けれど、不快ではない。友達と買い物に来ているような気楽さがある。いや、友達とも最近こんなふうに過ごしたことはない。
そのとき、「あれ?」と声がした。
振り返ると、梨沙が立っていた。隣に彼氏らしい男性がいる。
「夏目くんと神谷くんじゃん。びっくり」
「橘さん、こんにちは」
「お、おう……」
「ふたりって休日も一緒なんだ。あ、もしかしてデート?」
「ちが――」
「橘さん、楽しんでますか」
直の否定を、理人が遮った。質問で返している。否定も肯定もしていない。
「うん、彼と映画観てきたの。あ、そうだ夏目くん。このへん、よくくる? 私、ここの近くの明正大学の学祭に来たことあるんだよね」
「ああ、俺の母校だよ。明正大」
「えー、そうだったんだ。学祭すっごい盛り上がってたなー。模擬店めちゃくちゃ楽しかった。焼きそばがおいしくてさ」
「あー、うちのサークルの模擬店かも。俺、学祭で焼きそば焼いてたし」
「うそ、マジで? 世の中狭いねー」
直の目の前で、理人がほんの一瞬だけ動きを止めた。コーヒーカップを持つ手が、かすかに強くなった気がした。けれど直がそちらを見たときには、もういつもの無表情に戻っていた。
「ねえねえ、今日はなに買ったの?」
「服。神谷に選んでもらった」
「えっ、神谷くんが夏目くんの服選んだの? それもう完全にカップルじゃん」
「違うって。管理の一環だとか言われて……」
「管理? なにそれ。ますます意味わかんない。ねえ、神谷くんどういうこと?」
「先輩の生活全般を管理してます」
「……ふーん」
梨沙が意味ありげに笑った。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いね。また月曜日にー」
梨沙がひらひらと手を振って去っていく。
「……デートって。なんで毎回そうなるんだよ」
「否定する必要がありますか」
「あるだろ。誤解されるだろうが」
「誤解されても、俺は困りません」
直が言葉に詰まると、理人はカップを置いて、こちらをまっすぐ見た。
「先輩は困りますか」
「……困るっつーか、なんつーか」
うまく答えられなかった。困ると即答できない自分に、少しだけ戸惑った。
◆
カフェを出て、もう一軒だけ店を回った。日が傾いてきて、ビルの谷間にオレンジ色の光が差し込んでいた。
買い物袋を持って駅に向かう道すがら、理人が口を開いた。
「先輩、週末はいつもなにをしてますか」
「……寝てるか、仕事行ってるか、どっちかだな」
「やっぱりそうですか」
「なんだよ、やっぱりって」
「会社にいない週末は、ずっと家にいるんでしょう」
直は足を止めた。
「……お前、なんで俺の休日の過ごし方まで知ってんだよ」
「先輩の生活パターンを把握するのは、管理の基本です」
「いや、把握って。いつ調べたんだ。聞いたことねえぞ、俺」
「観察です」
「観察……」
平日の出退勤を見ていれば、ある程度は推測できるのかもしれない。けれど、週末に会社に行っているかどうかまで、普通はわかるものだろうか。
「先輩、金曜の夜に鞄に入れるものが多い週は、土曜に出社してます。少ない週は家にいます」
「……そこまで見てたのかよ」
「管理ですから」
断定的だった。反論を許さない口調だった。
なんだかぞわりとした。こわい、というのとは少し違う。気味が悪いのでもない。ただ、理人は自分のことを、自分が思っている以上に知っているのだと、じわじわと実感した。
服のサイズ。卵焼きの味付け。休日の過ごし方。金曜の鞄の中身。
全部、教えた覚えがない。
「来週の土曜日、空いてますか」
「……は? 来週も?」
「予定を入れておきましょう。どうせなにもないでしょうから」
「お前なあ……。さすがに毎週は――」
「毎週とはいってません。来週です」
「……」
文句を言おうとして、やめた。
どうせなにもない。その通りだった。理人に言われなくたって、来週の土曜日はいつも通り布団の中で一日が終わるだけだ。スウェットのまま、コンビニ弁当を食べて、スマホをいじって寝る。それが毎週の土曜日だった。
今日みたいに外に出て、服を買って、カフェでタルトを食べて。そんな休日は、社会人になってから一度もなかった。
「……好きにしろよ」
理人は小さく頷いた。
駅で別れた。理人は直を改札まで送ってから、反対方向のホームへ消えていった。理人は会社から徒歩十五分のところに住んでいると言っていた。直の家は電車で三十五分だ。わざわざ逆方向に来て、一日付き合って、また逆方向に帰る。管理の一環だというだけで、理由はそれ以上説明しない。
理人の背中を見送りながら、直は買い物袋をぶら下げた手を見下ろした。
ショップの紙袋が三つ。理人が選んだ服が入っている。
帰りの電車の中で、ぼんやり考えた。
平日は弁当。仕事中はコーヒー。退社時間になれば迎えにくる。休日は買い物。来週の予定まで決められた。
いつの間にか、理人のいない日がなくなっていた。
嫌か、と聞かれたら、嫌じゃない。むしろ楽だった。誰かに決めてもらうほうが、なにも考えなくていい。ひとりで過ごす休日より、理人に振り回される休日のほうが、あっという間に時間が過ぎた。
紙袋の中のシャツを指で触った。理人が選んだシャツ。理人が把握しているサイズ。理人が知っている、自分の好み。
でも、それでいいのか。
理人の顔が浮かんだ。カフェで聞かれた声が蘇る。
「先輩は困りますか」
困る、と言えなかった。それが少しだけこわかった。
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」
金曜日の朝、久しぶりに直の家のインターホンが鳴った。 直はいそいそと玄関に向かった。「おはよう」「おはようございます」 玄関前に理人が立っていた。白いシャツにネイビーのパンツという、いつもの格好だ。肩に雨粒が少しついている。直は口元が緩みそうになるのを堪えた。「今日も雨だな」「一日降り続くようです。折り畳みじゃないほうがいいですよ」「おう」 直がしゃがんで靴を履いていると、頭上から理人の声が降ってきた。「……ひどいで
理人が距離を置いてから、数日が経っていた。 弁当はない。朝の迎えもない。帰りも別々だ。会社でも、必要最低限の会話しかしない。 これが、管理が始まる前の生活だったのだ。ほんの二か月前まではこれが普通だったのに、今は毎日がやけに長く感じた。 その日の夕方、直はひとりで会社の最寄り駅へ向かって歩いていた。六月の空はまだ明るくて、夕日がビルの谷間に沈みかけていた。「あれ、直くん?」 声をかけられて振り返った。見覚えのある顔だった。「……あゆみ?
熱は下がった。けれど身体のだるさは抜けなかった。 とはいえ、二日も仕事を休むわけにはいかない。直は重い身体を動かし、出勤の準備をした。 いつもの時間になっても、インターホンが鳴らない。理人が迎えに来ない朝は久しぶりだった。入れ違いにならないよう、理人にメッセージを送った。『今日、出社するから』 すぐに返信がきた。『すみません。今日は迎えに行けません』 来られないのか。理人は、直が昨日に続いて休むと思っていたのかもしれない。けれど、その一文にはいつもの「気をつけてください」がなかった。
朝起きたら、身体がだるかった。 頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。「あー……やっちまったな」 電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。 鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。「……だよな」 原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。 夕方から急に雨が降りだした。六